中国の歌 『海よ、ふるさと』
2004年4月19日、NHKテレビの中国語会話(講師 陳淑梅さん)で、趙菲さん(ソプラノ歌手)がゲスト出演され、この歌の指導をされました。とても美しい曲でメロディーの中で、自分の母、自分の故郷、祖国などの思い出があり、郷愁を感じます。
中国の有名な作曲家王立平氏により1985年(昭和60年)に発表されています。映画「大海在呼喚」の主題歌として大ヒットしたもので、中国では誰でも知っている有名な曲です。
1996年(平成8年)のNHK中国語講座で紹介されるなど、この曲は日本でもなじみのある人が多い曲です。
それから、呉越華さん(ソプラノ歌手)によって、2005年9月12日に「覚えておきたい中国語の歌」として出版〈(株)中経出版〉されて居ります。今では、私の愛唱歌の一つとなり、娘のエレクトーン演奏をカセットテープに録音して楽しんでいます。
ご紹介します。
〈日本語歌詞〉
小さいころ母は私に教えてくれた、海は私が育った故郷
私は海辺で生まれ、海辺で育った
海よ海、海は私の生きるところ
風が吹き 波がわき出す、私と一緒にどこまでも
海よ海、私の母のように
天地のかなたまで、いつまでも私のそばにいる。
会員 赤木 力
私が好きな長崎
私が長崎県に来たのは、春真っ盛りの頃でした。
2008年3月の最後の日、私はこれまで数え切れないくらい何度も想像に想い描いて
いた街――長崎に到着しました。飛行機がゆっくりと長崎空港に着陸しようとした時、私が最初に感じたのは、小さい空港だなあということでした。その時私
は、日本は人口が中国より少なく、国土も狭いということ忘れていたのです。東京、大阪など大都市の空港は広いですが、他の地方都市の空港はそう変わらない
でしょう。日本の人は外側の美しさ、壮観さなどより実用性や安全性を重要視しているのだと感じました。
長崎は綺麗な都市です。4月の長崎は春の美しさに溢れており、どこまでも続く坂道、ピンク色の桜、真っ赤なツツジ、青々とした草木、また名前も知らない道端に咲き乱れる花々、どれも美しく、生命力が感じられました。最初に感じられた狭苦しさも次第に消え、私はすぐさま春の雰囲気に包まれたこの街が好きになりました。
長崎の方々は皆さん親切です。異国での生活を始めたばかりの私は、言葉や生活習慣などいろいろわからない点がありました。その時、周りの友達、先生方、大学の仲
間、そして見ず知らずの方までもが親切に色々な事を教えてくださったおかげで、私は長崎の生活にすぐ慣れることができました。
長崎はとても暮らしやすい街です。生活環境がよく、街も美しく清潔で、治安はよく、騒々しさがなく、県民の生活はゆとりと秩序があって、悠々自適に生活されている気が
します。日本の中にあって、長崎は経済の発達した大都市というわけではありませんが、とても暮らしやすい街ということができます。
長崎の人は平和を愛しています。原爆の深刻な被害を受けたこともあり、長崎県の方々は平和をいつくしみ、戦争に反対する気持ちをもっています。毎年8月9日の原爆の日には記念式典を行い、平和を大事にするよう、小さい頃から子どもに教えています。
…… ……
長崎での6ヶ月という時間はあっという間にすぎさり、毎日、とても充実した日々を送っています。私はどんどん長崎が好きになっていることに気づきました。これからの6ヶ月間、どんな生活が待っているか楽しみです。
長崎県立大学シーボルト校研修員 林麗紅
(中国福建省出身)
私と出会いの中国の人々
最初の中国旅行は、1998年に国際交流事業として友好都市の上海、蘇州を訪問しました。その折に上海市少年宮で高琪(中学2年)と知り合って、その後文通を始めることになりました。
1999年、長崎ウエスレヤン短期大学に入学し、夏期休暇に天津師範大学への研修旅行で北京観光も併せて生活体験の顛末を中国社会の一考察としてレポートしました。
2000年、上海市少年宮小芸術団の来崎の折に葛夢扉(中学2年)と出会い、文通を始めることになりました。
2001年、卒業論文「日中比較文化論」として集成しましたが、理論のみならず、実践することを模索していましたので、卒業後に蘇州大学へ留学しました。“異文化にふれあいもとめ21世紀の春、蘇州に翔び立つ。”
2004年、上海遊友倶楽部(長崎)において上海交流実習旅行に参加し、続いて蘇州へ足を延ばして、蘇州大学、東呉ホテル、大学病院の皆さん、商店街の友人となった人々と再会し旧交を暖めました。帰路、上海の二人の友人家族との再会も大変楽しく過ごしました。
2005年、旅行実習の成果を求め、上海・蘇州ひとり旅を実践しました。
2006年、蘇州大学へ研修旅行(写真参照)。
現在、諌早市たらみ図書館において、長崎ウエスレヤン大学の留学生と“ことばの交流”(相互学習)で毎週土曜日に楽しんでいるところです。
会員 赤木 力
ある中国人の若者
1990年代のことである。その頃、私は囲碁に興味を持っていた。
用務があり、福岡へ行った。そのとき、博多駅前にある「日本棋院九州本部」を訪れた。
そこに、多分、20歳位の中国人の若者がいた。彼の話では、日本には囲碁のよい本が沢山ある。それで日本語を勉強するために日本に来たと言う。
朝は新聞配達、夜は食堂の手伝いをして、日曜日に時間がある時は指導碁をしているとのこと。
そこで、私も彼に協力するために、3局程指導碁をお願いした。
みな完敗だった。
この対局の記念に、扇子に揮毫して貰った。名前は桃軍遠とあった。
後日、囲碁年鑑をみて、彼は中国の専門棋士で5段になっていることを知った。
彼は、今、中国のどこで健闘しているのだろうか?
彼の成功を心から願っている。
会員 有馬博志
中国語講座
今年の夏は北京オリンピックが盛大に開催され、毎日睡眠不足の顔で朝から出勤しています。一方、今春より中国語初級入門コース(夜間)講座に週1回参加していますが、こちらは悪戦苦闘の真っ最中・・・・・・。
来春までには何とか片言でも話せるように頑張り、2010年開催の上海万国博覧会へ行けることを楽しみにしています。
会員 川村正樹
中国一人旅の思い出・・・長江の旅(三峡上り)(その1)
もう何年も前のことになるが、図らずも中国長期滞在の機会を得て、夏休みに同僚の勧めで長江の旅を試みた。ツアーを組もうとしたが、同行者が無く一人旅となった。かなり高くついたが、折角の機会なので期待と不安を胸に思い切って旅立った。以下その旅行記である。
2001.7.1(土)晴
11:10アモイ空港より一路武漢へ。途中機内食がほどほどの量出た。武漢空港に着くと、雨上がりのようで直前まで激しく降っていた気配だ。李さんという40歳過ぎのガイドさんが迎えに来ていた。日本語はやや癖が有るが、なかなかさばける人のようだ。まずは武漢市内見物。開元寺と黄鶴楼に行く。黄鶴楼はさすがに素晴らしい。李白のいた頃とは場所も建物の形も違うようだが、荘厳な風格を感じさせる。4階に上って李白の詩「黄鶴楼送孟浩然之広陵」を書いた扇子を買う。それを書いた書家に登楼記念として私の名前も書き込んでもらう。260元と高くついたが、「孤帆の遠影碧空に尽き 唯だ見る長江の天際に流るるを」を目の当たりにしたような気分になれたことは得がたい経験であった。
武漢の街は古く、歴史を感じさせる。人口は800万だそうだ。市内見物は早めに切り上げて、長江の船着場の宜昌に向かった。その間、350キロ、波止場に着いた時には、日が暮れていた。
その後、波止場に停泊中の「国賓6号」という大型客船に乗り込む。すでに食堂も閉まっていたが、ガイドの李さんに頼んでラーメンを船室に運んでもらった。普通なら5元以内であるラーメンがここでは20元取られた。まあ特製なのでやむを得ないか。李さんと別れ、ツイーンの部屋にひとりでビールと白酒を飲みながら夕食。船室のテレビは前前日に発表された2008年オリンピックの北京開催の祝賀の報道一色だった。(執筆している今、そのオリンピックは目前に迫っているのだ。)明日からの船旅に備えて、早めに休むことにした。船は夜間このまま宜昌に停泊するのであろう。(以下次号に掲載)
会員 吉川雄幸